白道路自治会

白道路の概要

 白道路町は京都府のほぼ中央にあって、綾部市の北西に位置し市街地  市役所又はJR綾部駅より9㎞の処にあり車で走りますと約10分で着く村であり、典型的な「中山間地」であります。
  地形は北と南を低い山
に囲まれ東西に開けた小さな村であります。気候については、春は穏やかな日々が多く夏は山からの冷気が漂い日射は強いが木陰に入れば気持ち良い夏を迎えます。丹波高原の北部にあることと、日本海に近いことから秋の終わりから冬にかけて霧が深くなり冬季はシベリヤ大陸から吹き込む季節風で寒さが強くなり降雪を時折もたらし、年間を通して四季が楽しめるところであります。

  統治の地質は、約2億5千年前からの堆積層と火成岩が分布した粘土質酸性土壌であり、平野部の基盤をなしています。白道路の北側の山なみは松などの針葉樹が多く、昔はマツタケの良質なものが多く産したところであります。このような気候風土を活かして、昔はマツタケ、栗、西瓜、水稲の有名な産地でありました。

  現在、白道路の戸数は95戸、人口235人で男45%、女55%、高齢化率48%で年齢層は逆三角形の形をしております。
  白道路には、中期古墳と云われる前方後円墳(ニワトリ塚)があります。築造は5世紀末と推定され、全長23.3mと小型のものです。他に円墳が5ヵ所(五反田、白道路、狭間、多和田、岡田)ありますが、完存するものは半数で、半壊、全壊、盗掘されており本当に残念であります。

  ここ丹波地方の大部分は平家の領地として支配を受けていました。建久4年上原右衛門が何鹿郡6万石を賜り代官として支配していましたが1571年(元亀2年)赤井氏により滅ぼされました。1597年(慶長2年)藤掛氏の支配するところとなり、1615年(元和元年)大坂夏の陣で藤掛永元が討死したので、領地没収のち天領となりました。

  1867年(慶応3年)大政奉還1871年(明治4年)廃藩置県となり、翌年京都府の管轄となり、明治22年(1889年)4月八田郷より分離し、物部村に合併しました。物部村は昭和30年4月3日解村式をして31年9月に綾部市に合併し現在に至っております。

  古文書に白道路(はさうち)と初めて書かれているのは、1461年(寛政2年)で(何鹿郡所領注文)、今から552年前であります(※2014年現在)。また1875年(明治7年)頃の白道路の絵地図と人口の記録があります。それには、戸数、男女別の人口が書かれています。当時128戸、男性294人、女性285人合計579人とあります。その間幾多の変遷を経て現在に至っております。

  また有名人として、天竜寺の館長、滴水禅師古川守衛氏大槻牧師など多くの人がいます。村も滅亡に瀕した時代から、昭和11年に農村天国訪問記として、こんな村があると主婦の友社から全国に紹介された華やかな時代もあったのです。

 さて白道路の現状は、産業としては農業が主体で水田の面積 44ha、内水稲が 34ha、気候と土質を活かし魚沼産コシヒカリに負けない「白道路米」として人気を博しております。日本一の栗「丹波栗」京野菜である「みず菜」「万願寺とうがらし」「えび芋」も栽培されております。昭和初期から20年代はどの家庭でも養蚕が行われていましたが戦後は皆無となっております。高い技術を持つ男性は養蚕教師として全国に派遣されその技術の指導に努め、地域の技術を持ち帰り活かして来られたのでした。

  昭和2年に「白道路興農会」という共同組織を立上され、受託作業を行い農業経営の一翼を担ってきました。その精神が今も「株式会社  白道路興農会」に引き継がれています。自治会組織の中に「農事組合」を設け組合員の便宜が図られております。昭和62年には、「白道路楮生産組合」が組織され、黒谷和紙の原料を供給しているところです。このように、白道路の活性化を図るために今を生きる住民が知恵を出し合い、未来に夢のある楽しい生活が約束できる村とするために、さらに皆さん方の理解とご協力とご指導をお願いしたいと思っているところです。平成25年10月